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カミーユの声

ZZ第34話「カミーユの声」でちと泣きそうになった

いろいろ突っ込みどころはあれど、Zですっきりしなかった部分が決着ついていくんで見ててかなり楽しめる。人のあたりまえの感情も、比較的電波成分少なめで意外と丁寧に追ってくれてるんで結構ぐっと来たりする。(勉強してから見てるからスルスル頭に入ってくるってのもあるのかもしれないけど。) なによりこの辺のニュータイプ表現はファーストのラストのア・バオア・クーのアムロを思い出させてくれて良かった。

Z→ZZの流れは、ニュータイプを頭に入れて見ないとだめですね。

ファーストで、アムロとララァというニュータイプが現れ、それを皮切りにカツ、レツ、キッカにもっと先鋭的にその兆候が現れた。宇宙時代の人の進化の希望と言う形で、物語は終わった。

が、Zで、ニュータイプが現れても人は何も変らない、あいも変らず分かり合えず戦争をし続ける姿が描かれ、希望など何もない、と言うネガティブな形で物語は終わる。カツが死に、カミーユが精神崩壊するラストはその象徴。

ここでZZの次の展開は、たくましいニュータイプであるジュドーたちを出す事により、再び希望を描く事にあったんだと思う。エゥーゴと言う宇宙移民側に立つ戦いを続けるブライトには「ニュータイプ」と言うものに過大な希望があったんだろうし、それを踏まえると、ZZのスタート時のかなり強引なジュドーたちの巻き込みっぷりも、わかってあげる事が出来なくもない。(この解釈が当たっているのか、好意的解釈なのかはわからないけど)

ジュドー、ビーチャ、モンド、イーノ、エル、ルー・ルカ、プルなどと言う、子供たちだけでパイロットが構成されている事も、ファースト好き…と言うか、歴史物好き・戦記物好きの観点からすると「なんで子供ばかり…萎える!!!」という原因であるのだが、これも、みんな「新しい世代の子供たち」、「ニュータイプ」であることで、話の流れとしての理はまあ通っているんだ。ファーストではアムロとララァだけがニュータイプだった。でもファーストのラストで既にカツ、レツ、キッカに兆候が現れていたように、ニュータイプは特別なものではない。この時期には、宇宙移民の新しい世代の子供たちみんながニュータイプになる可能性を顕在化させ始めていた。

勿論いわゆるちゃんと努力してきた大人の軍人、パイロットたちはそれではたまらん。ZZでも、砂漠の旧ジオン軍部隊の男が敗北の後、「すべて…子供だと…? 砂漠は変らなかったが、時代は動いていたと言う事か」と嘆いている。またネオ・ジオンのオーギュスト・ギダンもグレミーのニュータイプ部隊(プルツー)に「我ら大人の男は必要ないということか」と不快感を示している。いや、ZZの描写に限らない。思い返してみればファーストでも既に、ララァの働きに、自分たちの戦いが馬鹿らしくなってシャアにサボタージュ的発言をしていたジオン兵がいたではないか。

と言うわけで、ファースト→Z→ZZの流れは、ニュータイプと言う事を軸として考えると話としては意外と自然な流れだと言う事がわかった。問題なのは、その後、ガンダムのテーマがSFであることの「人の革新」よりも、「軍事物」としての魅力に比重がシフトしていった事(あるいは戻った事)だ。多分、「ニュータイプ」と言うのは富野監督だけのもので、他の人は共有しきれなかったのだと思う。安彦先生も「人の物語が描きたいのであって、それ以上のものにはついていけない」みたいなことおっしゃられてるし。また、ニュータイプと言うのは選民思想にもつながるんで、最近では触れづらい部分もあるらしい。

ってわけで、その後の非・富野ガンダムはあくまで人間の戦争、人間の歴史の物語として、「0080」「0083」「08小隊」…そして今僕たちが携わらせてもらえている漫画版に至るまで、ニュータイプには触れずに作られることになる。(ZZ後の富野監督の「逆シャア」「F91」にしろ、「ニュータイプ」って言葉はお約束以上の役割は果たしていないと思うし)

で、そうなると逆に浮くのが、ZZって事になるんですよね(笑)。あの子供部隊が(笑)。

あれも、エゥーゴの戦力がずたずたになり、それでも戦いを続けなきゃならない状況のあの時、ブライトがニュータイプの希望にすがりついたと考えれば、そんなに悪くないなと思った。とにかく人からの印象だともっともっと破綻してると思ってたので、それよりは内容自体は思ったより悪くないです。やっぱり前半のあの主題歌とあのノリでえっらい損してるよなー。やっぱZの主題歌とか逆シャアの雰囲気はかっちょいいもん。

好意的解釈しすぎ? それとも理解力遅すぎ? もしかして見当違い?(笑)

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コメント

> カミーユ
すんません、小生もソコだけは目から汗が出ましたw
カミーユに過剰に思い入れしていた身としては、「もうそっとしておいてやれよ」というのが正直なところだったんですが。

> この解釈が当たっているのか、好意的解釈なのかはわからないけど
考えるな、感じるんだ
そうリー先生も申しております。
というかぶっちゃけもー選択肢がそれ1択しかw

> 多分、「ニュータイプ」と言うのは富野監督だけのもの
仰有る通りで、ニュータイプを正面から扱った非トミノガンダムって今のところ『ガンダムX』と『エコール・デュ・シエル』くらいしかないんですよ。
その他の作品は大抵「ピキーン!」が出るだけだし。
『X』にしたって、結局は“メタ・ガンダム”という変化球でしかありませんでしたし。

単なる異能力者や上位存在といった、SF的に明快なものだったらよかったんですけど。
『Ζ』以降のニュータイプは、“人の在り方”そのものを問うテーマ(『イデオン』や「バイストンウェル」ものとも共有している)に変わっていきましたものね。
単純な超能力者として受け止められ人気が出てしまったことに、富野監督が捻くれて哲学的な方に向かわざるを得なかった、ということなんでしょうかね(この辺はSF的なセンスの有無もあるのでしょうが)。

結局監督がたどり着いたニュータイプは“総体を見ることができる人(宇宙があって地球があって、地球のなかに我々がいてってことを、パッとわかる人)”という、もの凄く普遍的なものでした(「Cut」12月号インタビューより)。
これじゃ、余人の入り込む隙もあるワケがw

> 好意的解釈しすぎ? それとも理解力遅すぎ? もしかして見当違い?(笑)
いや、丁度いいくらいの受け止め方をなさってるように見受けられます。
ライト過ぎず、ディープ過ぎず。
小生が云うのもおこがましいんですが(^^;

投稿: ギムG | 2006年12月26日 (火) 10時39分

>考えるな、感じるんだ

アムロやカミーユに重ねたり、ちゃんと映像でやってるんですけどね(笑)。
見たときは「こいつが主人公だよ」って言う作劇的なサインと、お約束で「ニュータイプ」って言葉を使ったくらいにしか思ってなかったです。おちゃらけてたし(笑)。上記の事は、あとから好意的に解釈してやっと思い至った…って感じで。(ブライトの「ジュドー、引き込んだ俺を恨んでいないか…?」って台詞あたりですね。)

>富野監督が捻くれて哲学的な方に向かわざるを得なかった、ということなんでしょうかね(この辺はSF的なセンスの有無もあるのでしょうが)。

僕としてはSFって哲学だと思ってるところあるんで、ガンダムはニュータイプと言うものがあるところが「SFだなあ」って思ってます。
でも本文でも書いた通り、選民思想にもつながるんで今は触れづらい部分もあるらしいです。そんな事言ったらアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」みたいのはもう書けなくなっちゃうと思うけど…

>“総体を見ることができる人(宇宙があって地球があって、地球のなかに我々がいてってことを、パッとわかる人)”

ああでもちょっとピンときますよ~。なるほど、普遍的ですね(笑)。

投稿: TAK@森田 | 2006年12月26日 (火) 11時20分

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